2010年12月10日金曜日

Hiroshima Atomic Bomb Dome in Japan

「原爆ドーム(Atomic Bomb Dome)」の名で知られる「広島平和記念碑(Hiroshima Peace Memorial)」は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑です。
1996年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、“二度と同じような悲劇が起こらないように”との戒めや願いをこめて、“負の世界遺産”とも呼ばれています。
【登録名:原爆ドーム(Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome))】

原爆ドームのある場所は、原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園が広がっています。

原爆ドームの建物は、「広島県産業奨励館」(「広島県立商品陳列所」から改称)として、美術展を開催するなど広島の文化拠点として貢献していましたが、戦争が長引く中、1944年にその業務を停止し、行政機関・統制組合の事務所として使用されました。

そして、1945年8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を目標として原子爆弾を投下。
投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂しました。
建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れて、枠組みと外壁を中心に残存しました。
ドーム部分が全壊しなかった理由として、次のことがあげれています。(Wikipediaより)
・衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと
・窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
・ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと
・銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと

広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まりました。
その中で鉄枠のドーム形はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃には市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていたそうです。

その後、広島市単体での保存管理が続いていましたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定しました。